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オモチャの切符セットなんてあったな。切符とパンチがセットになっていて、切符がなくなると広告紙とかかたっぱしに穴開けてた。凄い貴重なフィルムでした。
昭和10年代で、コンクリートのビルとか自動車とか、結構あったんですね。あと切符もこの時代からリサイクルされていたなんて、びっくりです。このシリーズ大好きです。これからも楽しみにしています♪
駅で一枚一枚ハサミを入れてもらっていた切符を使っていた時期が懐かしいですね。窓口で売る人もハサミを入れる人も職人技が光っていました。
ナレーションは竹脇昌作、俳優・竹脇無我のお父さんです。ここでも「竹脇調」とよばれた独特の名調子が、モノクロの映像に映えています。
昔の人はきちんと背筋を伸ばして歩いてたのがわかりますね。
働いている人は明治生まれか。親世代は江戸時代生まれ。感慨深いな。
そう考えると映っている方で、御存命の方はいないでしょうね…
親が江戸時代に産まれたとか、なんだか凄いですね😳今の団塊世代が世代交代していけば、いずれ昭和生まれの親もいなくなっていくんですねぇ...ちなみ祖母は昭和2年生まれ。生きていたら8回目の年女を迎える年でした。この動画の時代だと祖母は10代。いずれRUclipsのコメント欄も50年前のコメントで溢れる時代がくるんですね。
もっと言うと働いている世代の祖父は坂本龍馬とかと同世代やな。
働昭和14~15年だったら、働いている若い女性は大正生まれですね。
大正消されてんなぁ。十年てでかいで
すごい😆⤴️旅客の実態をこんな膨大な作業で把握していたとは❗
1980年代、子供のころ田舎の駅で厚紙切符を取り出して渡す駅員さんとかまだ居たなぁ…それももう40年前なのか
省鉄(省線)(戦前あった鉄道省)の時代ですね。(省鉄(JGR)→国鉄(JNR)→JR)祖父がよく「戦前山手線は焦茶色で6両の電車が6分毎に来る路線だったんだぞ。大正時代から自動ドア採用されていたんだぞ。」とか、「東京駅から東海道線で、朝8時台発の普通姫路行きに乗って旅行に行ったんだぞ。」とか、「電化区間が沼津までだったから、沼津で電車から汽車に乗り換える。乗り換え待ち時間で弁当を買う。それまで東京駅から『沼津食わずでいる。』」等、色々自慢話を聞かされた思い出あり。
「沼津食わず」 今も昔も親父ギャグは健在。
省線の前は院線と言っていた。
すごい!!とても貴重な話ありがとうございます😊
エエな。ロマンあるな
それで沼津には桃中軒があるのか
使用済みの乗車券を回収して、発行駅ごとに分類して集計するなどしていたのか。気の遠くなるような作業だ。そして、計算はどんどん読み上げる数字を皆でそろばんでやっているところなどは壮観だ。戦争が始まる1年前だが、やはり戦争前の日本は豊かだったんだな。映像の中の人々もだし、こういう映画が作られること自体も。それから、女性の働く姿もたくさん出てくるし、女性もしっかりと活躍していたんだね。戦中と戦後すぐは貧しかったけど、それ以外は良い時代だったのだと思うね。
戦前も今と変わらないような人々の日常が存在していたんだね。乗車券はきちんとリサイクルして再生していたんだね。凄い。
にほんじんの性根というか基本的な部分は変わってないと思う。
紙のリサイクルは江戸時代にはありました。くず紙を買い取る人がまわってきて、割と質の悪い紙に再生されました
少なくとも1980年頃まではこういう切符が使われていた。切符を買う際あのホルダーから切符を取り出し日付印をスタンプする光景をよく覚えています。
バリバリの平成生まれですが、切符を駅員さんに見せて、パンチみたいなので穴開けてもらうのが、小さい頃の謎の憧れで夢でした。(「かっこいい!」って思ってた)
@@Runako_ny 穴を開けるというより、端を切る感じだね。
昭和15年、映像にある列車、駅、乗務員、乗客…無事、戦後を迎えられたことを祈りつつ拝見しました。昭和50年代はまだ硬券がたくさん残っていて、アルバイトした駅では改札さんから毎日麻袋で2~3袋回収した切符が出てました。自販機も増えてきた時代でしたが、窓口で硬券を買うのは遠出の時でワクワクしながら購入したものです。券裏に赤鉛筆線が入っているのはその日最初の発売だったと知ってからは、それに当たるとわけもなく嬉しかったな。
元都営地下鉄の駅員です。平成時代ですが硬券は振替輸送用で使用していました。私が勤務していた頃が、切符にハサミを入れる最後の方でした。
@@kazuhirosakamoto3115 様、本職の方から返信いただき恐縮、かつ光栄です。私はホームでの通対業務で、欠員があったときたまに改札の応援をしました。国電区間は軟券で、雨の日は切符が濡れて慣れない者にとって切りにくくたまに破ってしまうこともありました。北海道のローカル駅で、助役さんが入鋏しながら「右下に入鋏が正式」と教えてくださいました。
@@白髭の権八 さんへ。私が勤務していた頃もかなり薄いものでした。そういえば右下に入鋏をしていましたね。切符を受け取った時の向きによりますが。お客さんの中には角へ入鋏すると喜ぶ方が多かったですね。
@@kazuhirosakamoto3115 様、渡し~受け取りの動作が面倒なのか、「持たせ切り」を求めるお客様がいて(切符を手放さない)、そうすると短い辺を切ることに。
@@白髭の権八 さんへ。ありましたね。でも小さいお子さんのは必ず受け取ってから入鋏してました。事故が怖いので。ラッチの位置や向きの変化に対応すべく、両手で鋏を入れられるように訓練しましたよ。左右の手で切れる人は、ほとんどいませんでした。
懐かしいなーまさにこの当時出勤時はこういう感じの雰囲気でした。今じゃ通勤にはモバイルSuicaで事足りるし何とも便利になった!
あんたいくつや…?
昭和30年代の会社などで働いている方の映像などは、見た事あるが、戦前のこのような映像は、初めて見ました。ありがとうございます。
凄い貴重な映像ですね、ありがとうございます。戦前の様子が良くわかります。急に近く感じました
こんな戦前の貴重な映像が残っていたんだ。統計局には機械式の電動計算機はあるが主流は算盤、ほとんど手作業で印刷から配送、回収、統計までやっていたんだ。感動。
使った後の乗車券まで手計算していたなんてすごい
在りし日のモンロー計算機ですねえ
節々に挿入される次に待っている業務の説明書き、きっぷを模した枠になってるのもさることながらそれぞれ鋏の形が異なっていて、そういう遊び心になんというか癒されました😄
硬券懐かしいなぁ、今は記念キップでしかお目にかかれんな。
10:49-10:50 画面左側の行先掲示、現代の感覚からしても違和感が無い。素晴らしい。
券売場の雰囲気がどこか懐かしい
機械が今より発達していないですがその分人間が機械以上に効率的に無駄なく動けるように適応しているのがいいですよね。まさに仕事をしているというかみんな職人さんですよね😊
乗車券がこうやって印刷されていた時期があったというのをはじめて知りました。今は券売機で刷られますが、本当に貴重な映像ありがとうございます。何重にもチェックするのが、かなり細かくて大変だったんですね。ちなみにこの年は王貞治さんや板東英二が生まれた年であるというのも…
昔のこのような映像を見ると、あの戦争がなく発展した日本の姿はどんなかっただろうかと想像してしまう🎌
それな
今の北朝鮮じゃない?軍部が政権握ると碌でも無い結果が待ってますね。
戦争があり、完膚なきまでにボロボロになったからこその発展も多くあるのでどう転んだかは神のみぞ知るですね
戦争が無くても世界情勢には左右されますが、一つ容易に想像出来るとしたら、今の韓国みたいに「貧富の差が激しい世の中」「貧困から抜け出すためには外国で一旗揚げるしかない時代」になっていたことでしょう。(戦前のハワイやブラジル移民もそのような層が多い)
うちは寝てても食えてるだろうな。海軍の御用業者だったらしい。
超アナログ時代のこの映像に映り込んだ人々で、幸運にも戦火を生き延びた内の多くの人は、25年後の新幹線も体験した事を考えると鉄道の進歩は凄まじいものがあると思わざるを得ない…
今から25年前というと……北陸新幹線や秋田新幹線が開業した頃でしょうか……列車廃止や廃線ばっかで逆に衰退してるなぁ……
@@suzaku1218日本が衰退してるからねぇ地方はボロボロでも首都圏や近畿圏は新線開業も多いな
硬券を作るのにこんなに手間がかかっていたのか、と感心するとともに、こんなにたくさんの乗客のきっぷも全て手売りだったのか、というのも改めて驚き。そりゃそうよね、自動券売機なんてまだ普及してない時代よね。
10:37 今はSuicaやPasmoを改札口にてピッとする時代なので、昭和15年頃の駅の事務所にて切符を取り出す場所が懐かしいです🎫🚆。
この当時、既に日本の鉄道運行管理は、世界レベルに達していたのですね当時の機械工業レベルも考えると、此れは大変高等な技術です
戦前の映像だけど今と変わらないこともある。12:05あたりに映ってる制限解除の標識とか。
3:22当時としては前衛的なビートを刻むBGMだなぁと感心してたら紙切る音でワロタ
かつての国鉄はエリート企業だったんだな。膨大な乗車実績の情報を収集分析して運行計画を作る点では日本一の情報企業だったのかもしれない。
企業なのかな…🤔日本国有鉄道,の略よね?
この時国鉄ないけどね
ただ殿様組織であったことは間違いなく、今のJRもそういう体質があったり・・・。
このときは鉄道省よ
省線が走っていた。いまのE電
つい80年代位までは、毎日送られてくる日報を確認してダイヤを捌いていました。東京圏でさえ集中的に運行管理はされていませんでしたし、列車無線さえ完全艤装されていませんでした。現在は東京圏と周辺は計算機のオバケのような装置とデジタル無線で総合管理されていて乗車券の販売と共にスゴイ進化ですね。
今の巨大分散システムやそれをまとめるコンピュータアルゴリズムは、先人の創意工夫に基づいて組まれています。そしてそのシステムの創意工夫は今でも続いてるでしょう。
計算機のオバケwたしかにそうだわ
後方業務が自動化され、瞬時に様々な情報を送受信できるようになったことは有難いです。しかしながら、基本的な部分は映像の時代と変わっていないのも興味深い点ですね。
私の幼児の頃は、市バスは車掌さんが乗っていて、その人から母親は切符を買っていた。電車は切符売り場で硬い切符を買っていた。でも小学生に上がる頃には、自販機で買うようになり、気が付くと自動改札になってた。大阪の話です。
精密な機械やなぁ……リサイクルもしてたなんて凄い技術やなぁ。
ズラリと並ぶ券箱からサッと引き出され、スッとダッチングに通される切符80年近く前の映像ですが、窓口の様子は今と変わらないんですね
自分が住んでいた地域では、国鉄からJRになってもしばらくは同じ窓口や改札の様子でしたね。そこから10年程して自動発券システムが導入され、現在では無人駅になり、自動券売機のみになり…時代の移り変わりとはいえ、寂しい気持ちになりますね。
今は、オープンカウンターが多くなっている気がします。仕切りの厳重なカウンター、防犯対策にはいいと思うのですが。
10:50の発車標だけど、発光式になってるんだな。ここまで先進的なのは初めて見た。
大裁ちする機械の音が現代音楽のパーカッションみたいで好き
ビートを刻んでる
ろっくゆー!
UP主がどうやってこれら大量の貴重映像を集めたのか気になる。記録状態もとても素晴らしいし、是非是非資料として後世に残して欲しい。
>>かわけん さん初めまして、おそらくだけど、ご実家とか整理していてフィルムが見つかり、それをAD化するだけなら現在のハード・ソフト環境ならPCに詳しくなくてもUPは容易だけど(当方の動画みたいに)、ここまで映像・音声共にキレイってことは相当保管状態が良かったか、UP主さん自身、相当な修復技術を研究されてるか、その筋の職人さんと見受けました。
こういう映像って意外とVHSやDVDとかになってたりするもしくはNHKでやってて録画したとか
@@celica4945 修復されてるやつをアップしてるだけじゃないかな
ニコニコからの転載だよ(笑)
@@ojsjm39678そのニコニコのup主はどこから仕入れたのか知りたいな
駅の売上額と使用済切符の突き合せ審査ヤベェ!
買わずに持ち帰る者は必ず0人以上いるから、売上額≧切符の合計になるはず。
実際適当にやってそう
新幹線不正乗車の案件が解決した事実があります
記念に持って帰れんて事か‥きっぷ鉄には辛い
@@bo-sukesan 普通に買って使わんで持って帰ればええやんけ
昭和15年。大戦が始まって1年目の頃なんだけど。この映像は本当に昭和15年なのか? 昭和25年の間違いじゃないの?、と思い調べてみたけど間違いなく、1940年、昭和15年の制作でした。自画自賛するつもりは無いが、戦争で疲弊する前の日本は、当時でこれだけのレベルだったのか。各種の統計を取ってるシーンに、昔のレジみたいだけど「計算機」?、「集計機」?の様な物があるけど? この頃にはもうあったんだ。スゲー。現代の自分達は、知らなかったとはいえ「昔」を「遅れてた時代」と思い過ぎだな。
戦争の始まる一年前ですね
機械式計算機ですかね。軍艦などには弾道計算のための計算機が搭載されていたのは知っていましたが、軍事機密だと思っていたので民用で使われていたのは初めて知りました。電子計算機はこの数年後に暗号解読や科学技術計算などのためにイギリスが初めて作りました。現在のコンピューターの始祖とも言うべき、いわゆるプログラム内蔵型コンピューターが登場するのは1949年になってからです。
@@藤枝梅安-i9j 「第二次世界大戦は、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)までの6年余りにわたって続いたイギリス、フランス、ソ連、アメリカ、中華民国などの連合国陣営と日本、ドイツ、イタリアなどの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営との間で戦われた戦争」by Wiki、とあるんですけど? 私が言う大戦とはこの事です。
@@klaatubaradanikuto7195 日本の立場だと大東亜戦争の一年前ですね
@@ytake2048 ノイマン型ですね。プログラム内蔵方式の報告書にチューリング等、他の関係者の名が無かったから、ノイマン一人の名が残った奴ですよね。プログラム内蔵方式の理論はアラン・チューリングの方が早かったのに。
(2022年8月31日投稿)米国との開戦が、1941年(昭和16年)12月8日でしたから、開戦の前の年の作品、ということになるのでしょうか。街行く人の姿も、開戦前の姿ということになるのでしょう(街行く人の格好も(服装も)、開戦後では、変わったんでしょうね。)。(終戦は、1945年(昭和20年)8月15日でしたね。)映画に映っている人達の中にも、赤紙を受け取られて、出征されて行かれた方も、おられたのでしょうか。街の映像も開戦前の映像ですね。この時代は、まだ、貨物輸送の主力は、鉄路であったのでしょうね。
大陸だともう戦争してましたからね、赤紙で言えばもうこの頃からでしょう。しかし戦争しているとは思えない暮らしぶりだなと思います。
貨物輸送だけでなく、旅客輸送も主力は鉄道でしょうね。バス・航空機が発展するのは戦後ですから。船舶や自転車はそれなりに活躍していたでしょうが、主力は鉄道だったはずです。
10数年前の某JRでの経験ですが、マルス券や券売機券が主流となった現代でも「審査」という部署がちゃんとあって、大量の乗車券を麻袋に入れて決まった列車で託送してました。ここにあるように駅での仕分けはせず、全ての券種ごちゃ混ぜで発送してましたから、流石に全部「審査」してたわけではないでしょうが。今でも上信電鉄などでは硬券が主力。鉄道創業からのシステムがいまだに現役でいるのも、このシステムが完成度の高いことを物語っているのでしょう。
磁気券なら自動読み取り機があったのかもしれません。袋ごとに着駅は分かっているので、発駅と運賃の整合性を調べたのかも。(サンプル調査だとは思います)
2024年現在でも、多くの社局に審査部門は存在します。最近は、ICカードのデータを見ることも多いと思われます。
3:11〜3:37このシーンとても音楽的なリズムで裁断されるんです。感動
この時からわずか5年後、日本が焼け野原になるなんて、誰一人思ってないんだろうな。平和が一番だ。
正確には9年かな
硬券から磁気式の切符に切り替わった時は、券売機から出てくる切符にすごいなぁっと思いました。そして職員による改札から、自動改札に変わった時も、あの大行列が無くなり、一瞬で不正を見抜く駅員さんの尊敬の姿も見れなくなった。さらに東京で2001年頃にSUICAが導入されるとのことで、その駅に行った事も思い出です。その時に作ったSUICAのカードを一回デポジットで返してしまったのが悔やまれます。その2年後位後に作った物は未だに使っています。
たぶんですけど、20年使ってたら中のチップがぶっ壊れて結局交換せざるを得なくなると思います。
@@NT-zf8dxウチのSuicaは20年近く使ってますが、まだまだ現役ですよ!
Suicaのペンギンが横向いてるイラストのやつですかね
13:15新聞読んでて検札する時に新聞閉じて上の網棚のから切符を取り出す風景は現在でも変わりなく見れそうですね!
令和のいま、この工程を全てやるとそうなるのかなと考えてみました。間違えなく無理かな。切符のために、こんなに大勢の人が雇用され、それぞれ細かな役割があり、生活が成り立っていたんでしょうね。脱帽です。
ICカードの場合、これらの工程全てを自動で行っていますね。人間を雇用するのは無理でしょう。適切な休憩所や仮眠所を設置するだけでも、今の基準だと大変でしょうから。
3:03 「先ず板紙にJGR 鐵道省の組み合はせ字模樣が刷り込まれます。」とあり、この時代はJapanese Government Railways =直訳「日本國政府鐵道」、通常日本語「鐵道省」だったことが分かる。戦後にはJNR = Japanese National Railways =「日本国有鉄道」、通称「国鉄」と成った。国鉄スワローズという野球の球団を有していた。国鉄民営化後はJR (Japan Railways) グループである。
自動改札機の技術も凄いけど、昔のマンパワーはもっと凄かったんだなって思った
労働人数が爆発的に増えた時代だからできた。もちろん労働基準や安全管理をおざなりにしての高度経済発展
@@高山典久-x5e 高度経済成長は1960年代。この時代は、戦争に人を取られる直前だが、人口急増でもない。
13:04この時代でも1分単位で到着時刻を管理してたことに驚き
オークションに出てる国鉄時代の運転士の運行表を見る限り15秒単位で管理されてますね、ちなみに、鉄道開業後30年は遅延が頻繁に起きてたようですが1900年から厳しくなったらしいです、国鉄最後の15年間の平均遅延時間は3分だったらしいです。
鉄道というシステムの特性上、アバウトに管理すると効率が落ちてしまいます。無駄な信号停止が多発したり、接続がうまく行かなかったり。自然と時間管理が厳しくなったのでしょう。
80歳の親が一歳のときの映像❔はじめて見ます‼️
東海道新幹線が開業しても、まだ座席指定管理は記録台帳と鉄道電話の併用かつ手書き作成だったのですよね窓口は大混雑でパンクしても、列車はガラ空きのまま発車しかも人間の手書きですから、誤発行も頻発此れを解消するため、自動管理システムのマルスが開発され、様々な改良を重ねて現在に至ります
子供の頃は自動発券機なんてなかったから、窓口でこうだったなあ。
凄い😊貴重な資料ですね😊良き動画を拝見できました✨ありがとうございます
10:00〜そうそうこれこれ。昔の窓口の風景といえばこれでしたねー。着駅ごとに切符が並べられていて「◯◯まで」と伝えて取り出して、10:09のダッチングマシンで日付するところもめちゃくちゃ懐かしい。
動画中の硬券のデザインのテロップ枠の鋏痕の形が全部違うのがオシャレ
この映像に映っている方々が現在どのような暮らしをなさっているのかとても興味深い。
映っている人の中に子供が見当たらなかったのでほぼ全員死んでるでしょ。昭和元年生まれで96歳ですので、当時二十歳前後の人が辛うじて生きているかどうかですかね。
12:40 この場面に子供はいますので、この方ならもしかしてご存命かもしれませんね。平均寿命的には厳しいですが。出演した事覚えてたら色々聞きたいですね。
昭和40年代中頃位迄は硬券が殆どだと思ったけど。其れと改札係の駅員さんが暇だと暇つぶしに改札鋏をクルクル回したりカチカチ音を立ててのを思い出しますね、
JRが自動改札導入に踏み切ったきっかけのひとつが、改札口の駅員さんの労働条件の悪さだったと聞きます。
@@稲荷恵比寿 都心部の駅は30分交替でした。集中力の限界でしょう。
11:21 え!?当時のフィルム時代の映像の上に、更に映像をスポットライト演出で合成させるって、メチャクチャ凄い!もう、当時から映像の合成技術ってあったのか!
現像した撮影フィルムに光を通して別のフィルムに当てて感光させて複製してたんだと思うので、その光を遮ったり重ねたりして編集してたんでしょうね。
@@NT-zf8dx へぇ~!フィルムの加工には、そんな特性を活かした編集技術があったんですね~!そうなると、時間も人手もコストも、相当掛かっていたのでしょうね~!今では、クロマキー透過合成などの編集どころか、個人のズブの素人が、1人パソコンで編集ソフトを使って、テンプレを選んでクリック1つ1秒も掛かりませんからね。この当時から見ると、相当に劇的な進化を遂げましたね!
国鉄~私鉄~駅の窓口~子供一枚硬券キップ購入しました。懐かしいですね~
乗車券印刷工場で乗車券の原型を作ってる時の音好き。
歌いたくなる♬♪
再利用されるという不正を防止するためという理由が一番だったのでしょうが、この時代にもうリサイクルの意識があったことがすごいと思います。それにしても、一枚ずつ刷っていたとは、想像もしませんでした。大きな紙に何枚か刷って、切るのかと思ってました。
❌大きな紙→印刷→裁断⭕大きな紙→裁断→印刷
リサイクルというか、単に貧しくてもったいない、と皆が思ってしまう時代だったと思う。いいか悪いかは別にして、今は豊かになって費用削減の要求はあれど紙などいくらでも、且つ安く買えるから節約しようという意識が働かないのだと思う。とはいえ、不要なところに資材を使わない、使えるならまた使う、という意識はいつでも大事かと。
鉄道関係無いですが、リサイクル自体は江戸時代にはやってたそうですよ。
この映像だと、裁断してから券面印刷してるけど、昭和40年代になると、東京印刷所では券面印刷してから裁断するという、いわゆる集中印刷券が登場してますね
昭和15年ですか・・逆に今から80年後(どうなっているかわかりませんが・・)から今現在を振り返るとSUICAやE233系15両とかも古臭く見えてしまうんでしょうね・・その頃は鉄道に変わる何かが出てきてるか・・(80年くらいでそれはないかもしれませんが・・w)
AIがカメラでその人が乗った駅と降りた駅を認識し勝手にその費用が請求または引かれていると予想。
お金という概念がなくなってると思う。
まさか80年後になって自分たちが見たこともない機械で見られてるなんて思いもしないだろうね
これに映ってる人たちが今の自動改札機やICカードを見たらどんな顔をするだろうか?
現代の社会の風景は映像や写真に残るからいいやと思ってたけどこうやって見てみると映像だけじゃわからないことがいっぱいですね実感がない
阪急沿線に住んでいましたが、1970年代前半の高校生の時には、紙の切符・定期券でした大学生の時は、自動改札が普及し始め会社員になり、東京に行くと手動改札だったのに驚きました
1970年後半でも、国鉄の駅には、何百種類もの切符がストックされ、結構ローカルな駅でも駅員さんはサッと切符を選んでくれ、大したものだなぁと感心しました
ここに写ってるみんながもうこの世に居ない…感慨深い
そうなの?
@@waza-waza 様 赤ん坊でも80過ぎですよ。大人の方はほぼこの世には居ませんよ。この時代の老人は幕末生まれ
@@sunami808 みんな=全員かと思っていたのですが、必ずしもそうではないらしい🙇♂️
うちのオヤジ97はこの頃15歳だ(笑)
@@gaikaomiru すげえ!オヤジ元気でいてくれよ!
高校の通学はSLでした。切符も分厚い。父親が製紙会社の現場で仕事してたので釜からの湯気、匂い、暖かさ。遊びに行った時の思い出します。平和がいいです。二度目の東京五輪、に会えた。戦争が無いように頑張ってみようと思った。人生100年時代です。1956年私が生まれた100年前は日米友好通商条約の年、100年後は月旅行がはじめてるか。時間は生きてます。
はぁ〜アナログ時代と言うか…人力時代って、全員が職人なのですね凄い…今、全部人力アナログでやったら交通インフラは麻痺して止まると思う…
仰る通りなのだけど、雇用の流動化を考えると職人じゃない方がいいのかもね。
12:00〜の列車は、東京午前5時30分発大阪午後6時48分着の第27列車(普通列車)ですね。昭和15年1月の時刻表より。
コメント何もありましたが、親世代が江戸時代生まれで働く子世代が明治生まれって考えるとこの時代で電車が走ってる事が凄いですよね。
お気づきだろうか、タイトルの右下の切り欠きが場面ごとに変わっていることに。
本当だ!全然気づかなかったwww
細かい遊び心ですよね。おしゃれ。
7:36 すげぇな、手先が器用だ
昭和15年かもうここに映ってる人の大半はこの世にいないんだな
昭和15年は1940年。写っている人は成人(18歳以上)していると考えたら、現在最低でも100歳です。もしもこの映像を「懐かしい」といえる人がいたら、長寿と言えますね。
この時幼児とかだと今80歳代だね。この映像に映る成人でも、まもなく戦争で死んだ人もいるんだろうな・・
列車内で検札を受けているおばあちゃんは、たぶん江戸時代生まれ!
@@tomonaka6611 天皇制政府によって犬死にさせられました。
@@Su----5年後の総理大臣も慶応生まれ。
なるほど‥硬券はこのように造られていたんですね‥🤔SuicaやPASMOの無い時代だから手作業や集計も大変だったのですね‥だから回収は厳重だったのですね‥今は使用済乗車券や特急件を欲しいといえばもらえますが昔はほぼくれませんでした‥
今思えば、硬券は随分もったいない話ね。
無効印無かったのかな?
今は無効印や中にはその駅オリジナルの使用済印がありますが、昔はどうだったのでしょうか…??国鉄だけでなく各私鉄も乗車券や急行券の回収が極めて厳重で東武東上線の特別急行列車フライング東上号の特別急行券などは回収が極めて厳重でオリジナルの特別急行券が殆ど現存しないらしいですね…
当時、鉄道省(のちに国鉄)の使用済みの乗車券が再生紙に…当時からリサイクル♻️されていた事実には驚きました‼️貴重な動画をありがとうございます。
4:15麻雀上手そう
こういう動画は本当貴重ですなあ
幼い頃路線バス乗り場で硬券を買った記憶がある。子供は小さくたくさん並んでいるものを欲しがるが、例に漏れず私も親に全部集めたいと言って困らせた。ほどなくして硬券はなくなり、今の整理券方式に。全面に「ワンマン」の札が出ていたが、ワンマン=怖い人のイメージだったので、どんな怖い運転手がいるのか気になって親に尋ねたなぁ。
2年程前に盛岡駅前のバスターミナルで県北バスの切符を買ったら硬券が出てきて驚きました
券紙をただひたすら横の台に移すだけの作業5分と耐えられる気がしない
看板や箱といったものに書かれてる文字は基本的に手書きだったはず。どれも達筆でめっちゃカッコいい✨現在では使われない複雑で難しい漢字も重厚感があって素晴らしい👍パソコンとかは現状維持でいいけど、手で書く時はこの難しい漢字で学んだ方がいいと思う。
素晴らしいよく残してアップして頂きました。切符の意味ってもう無くなるのは間違いない。さみしいけど。切符を切ってもらうの嬉しかったな。
この動画内に出てきた人たち今は夜空に輝くお星様になったのです⭐️
1970年代までは未だマルスシステムが未成熟の時代で近距離きっぷでも初乗り区間のきっぷのみ機械売りで近郊区間でもあらかじめ印刷された硬券で発売され、窓口できっぷ箱から取り出しダッチングマシンに通して日付を打ち込み窓口から渡されました。今では考えられないかもしれませんが、1970年代中盤まで京橋駅(大阪)から吹田まで硬券で売られてました。今ならICOCAでピッ!ですけどw今なら車内で検札することはなくなりましたね。車掌は座席指定車でタブレットで確認ですから。
東海道線だと1984年のルミネ開店までの茅ヶ崎駅北口では厚紙切符を売っていました。
硬券とか日付記録のダッチングマシーンは、紀州鉄道など小さい所しか使ってないですね。ダッチングマシーンはあまり使わないから壊れないらしいですが、製造中止で部品がないので壊れたらお終いという側面も・・・。
これ大阪鉄道局管内で制作したのか?と思った。ちょうど逆塗りになった流電が映っている
まだまだ工業化が未発達だった時代だからしかたないけど、一つの作業に1人ついてたなんてね〜。
10:16このタイプの切符子供料金の場合印刷された斜線部分を販売員がハサミで先端部分を →∠ の様にカットしていましたね。10:09は日付スタンパーでしたか?
小児鋏でざっくり切って、切った方は改札日報につけて審査に送付でした。
一枚の切符にどれくらいの人が関わっているんだろう。。
僕の子供時代もこういう切符でした。どこどこ行きでしたね。それが、金額表示になり、今はカード式
7:02このリズムサンプリングして曲にしたい
懐かしいです。この頃は電子卓上計算機や電子レジスターがなかったので私もそろばんで勘定しておりました。
この僅か5年後に日本が敗戦で鉄道も含めて壊滅するとは思わなかっただろうな
それは現代の俺たちにも言えるんやで…
太平洋戦争に突入する一年前ですね。大日本帝国は明治大正昭和初期で、ものすごい西欧化をしましたね。切符の製造も大変でしたね。全てのパターンを用意しなきゃならなかったんだから。必要だからとはいえ、大変なご尽力でしたでしょう。
この時代には乗車記念印や無効印なんて物は存在しないのかなぁ。良い時代だけどコレクション向きな時代ではないのかな?でも翌年からは太平洋戦争ですし貴重な動画です。
観光記念スタンプならあったようで、韓国の鉄道の本で日本統治時代の朝鮮鉄道各駅の地元名物を図案化したスタンプが載っていてなかなか楽しかったです。
作る側としては新しい駅ができるたび「また?忙しいのに勘弁してよ~」ってなるだろうな。
運賃改定の度とも言えますが、「運賃改定印」が押されていることも多かったですね。
戦前の日本は先進国だな。硬券である理由がよくわかる。乗車券は貨幣と同じ価値機械式電動計算機も導入されていたJGR統計局。ジェットエンジンで除雪をした時代。
ジェットエンジンで除雪を試みて失敗するのは、1950年代後半。
踏切の遮断機ってこの頃にもうあったのか…
遮断かん式はあったものの、ワイヤー式や柵で遮断するものも普通にあり、今その光景は中国や東南アジアなどで見られます。また、自動化はされてなかったために現在の1種にあたる踏切には踏切警手がいて上げ下げはダイヤグラムなどを見ながらの手動、それ以外は踏切警手はいるが時間外は3種か4種になる2種やほとんどが遮断かんの無い3種か4種でした(自動化は戦後になってからの話です)。国鉄だと夜行や貨物含めて24時間運行が当たり前の時代なので、踏切警手も交代制で駅に近くなければ小屋に仮眠できるスペースや別にボットン便所もあったほどです。
券売窓口のずらりと並んだ硬券取り出し口。ものすごく懐かしい。慣れた駅員はあれを見ないで引き抜き、お金と引き替えで即渡していた。自動販売機よりはるかにスピーディーだったこと。昭和生まれでないと知らないでしょうね。
いくら買うのが早くても並ぶのは勘弁してほしいですね。あと、駅員のガラの悪さは思い出したくもないですね。
昔の郵便局員、駅員など窓口でエラソーでしたね。座席も客より一段高かった。民間だと銀行窓口も客を顎でシャクったりしていましたからね。
もしかしてだけど、自分が子供だったからかもしれないw
東北地方の駅では1990年頃まで10:06からみたいに手動で切符を売っていたと親父から聞きました。大学進学で首都圏に出てきた時は自動改札を見てすごい驚いたと聞きました。
オモチャの切符セットなんてあったな。切符とパンチがセットになっていて、切符がなくなると広告紙とかかたっぱしに穴開けてた。凄い貴重なフィルムでした。
昭和10年代で、コンクリートのビルとか自動車とか、結構あったんですね。
あと切符もこの時代からリサイクルされていたなんて、びっくりです。
このシリーズ大好きです。これからも楽しみにしています♪
駅で一枚一枚ハサミを入れてもらっていた切符を使っていた時期が懐かしいですね。窓口で売る人もハサミを入れる人も職人技が光っていました。
ナレーションは竹脇昌作、俳優・竹脇無我のお父さんです。ここでも「竹脇調」とよばれた独特の名調子が、モノクロの映像に映えています。
昔の人はきちんと背筋を伸ばして歩いてたのがわかりますね。
働いている人は明治生まれか。親世代は江戸時代生まれ。感慨深いな。
そう考えると映っている方で、御存命の方はいないでしょうね…
親が江戸時代に産まれたとか、なんだか凄いですね😳
今の団塊世代が世代交代していけば、いずれ昭和生まれの親もいなくなっていくんですねぇ...
ちなみ祖母は昭和2年生まれ。生きていたら8回目の年女を迎える年でした。
この動画の時代だと祖母は10代。
いずれRUclipsのコメント欄も50年前のコメントで溢れる時代がくるんですね。
もっと言うと働いている世代の祖父は坂本龍馬とかと同世代やな。
働昭和14~15年だったら、働いている若い女性は大正生まれですね。
大正消されてんなぁ。十年てでかいで
すごい😆⤴️旅客の実態をこんな膨大な作業で把握していたとは❗
1980年代、子供のころ田舎の駅で厚紙切符を取り出して渡す駅員さんとかまだ居たなぁ…それももう40年前なのか
省鉄(省線)(戦前あった鉄道省)の時代ですね。
(省鉄(JGR)→国鉄(JNR)→JR)
祖父がよく「戦前山手線は焦茶色で6両の電車が6分毎に来る路線だったんだぞ。大正時代から自動ドア採用されていたんだぞ。」とか、「東京駅から東海道線で、朝8時台発の普通姫路行きに乗って旅行に行ったんだぞ。」とか、「電化区間が沼津までだったから、沼津で電車から汽車に乗り換える。乗り換え待ち時間で弁当を買う。それまで東京駅から『沼津食わずでいる。』」等、色々自慢話を聞かされた思い出あり。
「沼津食わず」
今も昔も親父ギャグは健在。
省線の前は院線と言っていた。
すごい!!
とても貴重な話ありがとうございます😊
エエな。ロマンあるな
それで沼津には桃中軒があるのか
使用済みの乗車券を回収して、発行駅ごとに分類して集計するなどしていたのか。気の遠くなるような作業だ。そして、計算はどんどん読み上げる数字を皆でそろばんでやっているところなどは壮観だ。
戦争が始まる1年前だが、やはり戦争前の日本は豊かだったんだな。映像の中の人々もだし、こういう映画が作られること自体も。それから、女性の働く姿もたくさん出てくるし、女性もしっかりと活躍していたんだね。戦中と戦後すぐは貧しかったけど、それ以外は良い時代だったのだと思うね。
戦前も今と変わらないような人々の日常が存在していたんだね。乗車券はきちんとリサイクルして再生していたんだね。凄い。
にほんじんの性根というか基本的な部分は変わってないと思う。
紙のリサイクルは江戸時代にはありました。
くず紙を買い取る人がまわってきて、割と質の悪い紙に再生されました
少なくとも1980年頃まではこういう切符が使われていた。切符を買う際あのホルダーから切符を取り出し日付印をスタンプする光景をよく覚えています。
バリバリの平成生まれですが、切符を駅員さんに見せて、パンチみたいなので穴開けてもらうのが、小さい頃の謎の憧れで夢でした。(「かっこいい!」って思ってた)
@@Runako_ny 穴を開けるというより、端を切る感じだね。
昭和15年、映像にある列車、駅、乗務員、乗客…無事、戦後を迎えられたことを祈りつつ拝見しました。
昭和50年代はまだ硬券がたくさん残っていて、アルバイトした駅では改札さんから毎日麻袋で2~3袋回収した切符が出てました。
自販機も増えてきた時代でしたが、窓口で硬券を買うのは遠出の時でワクワクしながら購入したものです。
券裏に赤鉛筆線が入っているのはその日最初の発売だったと知ってからは、それに当たるとわけもなく嬉しかったな。
元都営地下鉄の駅員です。平成時代ですが硬券は振替輸送用で使用していました。
私が勤務していた頃が、切符にハサミを入れる最後の方でした。
@@kazuhirosakamoto3115 様、本職の方から返信いただき恐縮、かつ光栄です。
私はホームでの通対業務で、欠員があったときたまに改札の応援をしました。国電区間は軟券で、雨の日は切符が濡れて慣れない者にとって切りにくくたまに破ってしまうこともありました。北海道のローカル駅で、助役さんが入鋏しながら「右下に入鋏が正式」と教えてくださいました。
@@白髭の権八 さんへ。
私が勤務していた頃もかなり薄いものでした。
そういえば右下に入鋏をしていましたね。切符を受け取った時の向きによりますが。
お客さんの中には角へ入鋏すると喜ぶ方が多かったですね。
@@kazuhirosakamoto3115 様、渡し~受け取りの動作が面倒なのか、「持たせ切り」を求めるお客様がいて(切符を手放さない)、そうすると短い辺を切ることに。
@@白髭の権八 さんへ。
ありましたね。でも小さいお子さんのは必ず受け取ってから入鋏してました。事故が怖いので。
ラッチの位置や向きの変化に対応すべく、両手で鋏を入れられるように訓練しましたよ。左右の手で切れる人は、ほとんどいませんでした。
懐かしいなー
まさにこの当時出勤時はこういう感じの雰囲気でした。
今じゃ通勤にはモバイルSuicaで事足りるし何とも便利になった!
あんたいくつや…?
昭和30年代の会社などで働いている方の映像などは、見た事あるが、戦前のこのような映像は、初めて見ました。ありがとうございます。
凄い貴重な映像ですね、ありがとうございます。戦前の様子が良くわかります。急に近く感じました
こんな戦前の貴重な映像が残っていたんだ。統計局には機械式の電動計算機はあるが主流は算盤、ほとんど手作業で印刷から配送、回収、統計までやっていたんだ。感動。
使った後の乗車券まで手計算していたなんてすごい
在りし日のモンロー計算機ですねえ
節々に挿入される次に待っている業務の説明書き、きっぷを模した枠になってるのもさることながら
それぞれ鋏の形が異なっていて、そういう遊び心になんというか癒されました😄
硬券懐かしいなぁ、今は記念キップでしかお目にかかれんな。
10:49-10:50 画面左側の行先掲示、現代の感覚からしても違和感が無い。素晴らしい。
券売場の雰囲気がどこか懐かしい
機械が今より発達していないですがその分人間が機械以上に効率的に無駄なく動けるように適応しているのがいいですよね。
まさに仕事をしているというかみんな職人さんですよね😊
乗車券がこうやって印刷されていた時期があったというのをはじめて知りました。今は券売機で刷られますが、本当に貴重な映像ありがとうございます。
何重にもチェックするのが、かなり細かくて大変だったんですね。
ちなみにこの年は王貞治さんや板東英二が生まれた年であるというのも…
昔のこのような映像を見ると、あの戦争がなく発展した日本の姿はどんなかっただろうかと想像してしまう🎌
それな
今の北朝鮮じゃない?
軍部が政権握ると碌でも無い結果が待ってますね。
戦争があり、完膚なきまでにボロボロになったからこその発展も多くあるのでどう転んだかは神のみぞ知るですね
戦争が無くても世界情勢には左右されますが、一つ容易に想像出来るとしたら、今の韓国みたいに「貧富の差が激しい世の中」「貧困から抜け出すためには外国で一旗揚げるしかない時代」になっていたことでしょう。(戦前のハワイやブラジル移民もそのような層が多い)
うちは寝てても食えてるだろうな。海軍の御用業者だったらしい。
超アナログ時代のこの映像に映り込んだ人々で、幸運にも戦火を生き延びた内の多くの人は、25年後の新幹線も体験した事を考えると鉄道の進歩は凄まじいものがあると思わざるを得ない…
今から25年前というと……
北陸新幹線や秋田新幹線が開業した頃でしょうか……
列車廃止や廃線ばっかで逆に衰退してるなぁ……
@@suzaku1218日本が衰退してるからねぇ
地方はボロボロでも首都圏や近畿圏は新線開業も多いな
硬券を作るのにこんなに手間がかかっていたのか、と感心するとともに、
こんなにたくさんの乗客のきっぷも全て手売りだったのか、というのも改めて驚き。
そりゃそうよね、自動券売機なんてまだ普及してない時代よね。
10:37 今はSuicaやPasmoを改札口にてピッとする時代なので、昭和15年頃の駅の事務所にて切符を取り出す場所が懐かしいです🎫🚆。
この当時、既に日本の鉄道運行管理は、世界レベルに達していたのですね
当時の機械工業レベルも考えると、此れは大変高等な技術です
戦前の映像だけど今と変わらないこともある。
12:05あたりに映ってる制限解除の標識とか。
3:22
当時としては前衛的なビートを刻むBGMだなぁと感心してたら紙切る音でワロタ
かつての国鉄はエリート企業だったんだな。膨大な乗車実績の情報を収集分析して運行計画を作る点では日本一の情報企業だったのかもしれない。
企業なのかな…🤔
日本国有鉄道,の略よね?
この時国鉄ないけどね
ただ殿様組織であったことは間違いなく、今のJRもそういう体質があったり・・・。
このときは鉄道省よ
省線が走っていた。いまのE電
つい80年代位までは、毎日送られてくる日報を確認してダイヤを捌いていました。東京圏でさえ集中的に運行管理はされていませんでしたし、列車無線さえ完全艤装されていませんでした。現在は東京圏と周辺は計算機のオバケのような装置とデジタル無線で総合管理されていて乗車券の販売と共にスゴイ進化ですね。
今の巨大分散システムやそれをまとめるコンピュータアルゴリズムは、先人の創意工夫に基づいて組まれています。
そしてそのシステムの創意工夫は今でも続いてるでしょう。
計算機のオバケwたしかにそうだわ
後方業務が自動化され、瞬時に様々な情報を送受信できるようになったことは有難いです。しかしながら、基本的な部分は映像の時代と変わっていないのも興味深い点ですね。
私の幼児の頃は、市バスは車掌さんが乗っていて、その人から母親は切符を買っていた。
電車は切符売り場で硬い切符を買っていた。
でも小学生に上がる頃には、自販機で買うようになり、気が付くと自動改札になってた。大阪の話です。
精密な機械やなぁ……リサイクルもしてたなんて凄い技術やなぁ。
ズラリと並ぶ券箱からサッと引き出され、スッとダッチングに通される切符
80年近く前の映像ですが、窓口の様子は今と変わらないんですね
自分が住んでいた地域では、国鉄からJRになってもしばらくは同じ窓口や改札の様子でしたね。
そこから10年程して自動発券システムが導入され、現在では無人駅になり、自動券売機のみになり…
時代の移り変わりとはいえ、寂しい気持ちになりますね。
今は、オープンカウンターが多くなっている気がします。仕切りの厳重なカウンター、防犯対策にはいいと思うのですが。
10:50の発車標だけど、発光式になってるんだな。
ここまで先進的なのは初めて見た。
大裁ちする機械の音が現代音楽のパーカッションみたいで好き
ビートを刻んでる
ろっくゆー!
UP主がどうやってこれら大量の貴重映像を集めたのか気になる。
記録状態もとても素晴らしいし、是非是非資料として後世に残して欲しい。
>>かわけん さん
初めまして、おそらくだけど、ご実家とか整理していてフィルムが見つかり、それをAD化するだけなら現在のハード・ソフト環境ならPCに詳しくなくてもUPは容易だけど(当方の動画みたいに)、ここまで映像・音声共にキレイってことは相当保管状態が良かったか、
UP主さん自身、相当な修復技術を研究されてるか、その筋の職人さんと見受けました。
こういう映像って意外とVHSやDVDとかになってたりする
もしくはNHKでやってて録画したとか
@@celica4945 修復されてるやつをアップしてるだけじゃないかな
ニコニコからの転載だよ(笑)
@@ojsjm39678そのニコニコのup主はどこから仕入れたのか知りたいな
駅の売上額と使用済切符の突き合せ審査ヤベェ!
買わずに持ち帰る者は必ず0人以上いるから、売上額≧切符の合計になるはず。
実際適当にやってそう
新幹線不正乗車の案件が解決した事実があります
記念に持って帰れんて事か‥
きっぷ鉄には辛い
@@bo-sukesan 普通に買って使わんで持って帰ればええやんけ
昭和15年。大戦が始まって1年目の頃なんだけど。この映像は本当に昭和15年なのか? 昭和25年の間違いじゃないの?、と思い調べてみたけど
間違いなく、1940年、昭和15年の制作でした。自画自賛するつもりは無いが、戦争で疲弊する前の日本は、当時でこれだけのレベルだったのか。
各種の統計を取ってるシーンに、昔のレジみたいだけど「計算機」?、「集計機」?の様な物があるけど? この頃にはもうあったんだ。スゲー。
現代の自分達は、知らなかったとはいえ「昔」を「遅れてた時代」と思い過ぎだな。
戦争の始まる一年前ですね
機械式計算機ですかね。
軍艦などには弾道計算のための計算機が搭載されていたのは知っていましたが、軍事機密だと思っていたので民用で使われていたのは初めて知りました。
電子計算機はこの数年後に暗号解読や科学技術計算などのためにイギリスが初めて作りました。
現在のコンピューターの始祖とも言うべき、いわゆるプログラム内蔵型コンピューターが登場するのは1949年になってからです。
@@藤枝梅安-i9j 「第二次世界大戦は、1939年(昭和14年)から1945年(昭和20年)までの6年余りにわたって続いたイギリス、フランス、ソ連、アメリカ、中華民国などの連合国陣営と日本、ドイツ、イタリアなどの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営との間で戦われた戦争」by Wiki、とあるんですけど? 私が言う大戦とはこの事です。
@@klaatubaradanikuto7195
日本の立場だと大東亜戦争の一年前ですね
@@ytake2048 ノイマン型ですね。プログラム内蔵方式の報告書にチューリング等、他の関係者の名が無かったから、ノイマン一人の名が残った奴ですよね。プログラム内蔵方式の理論はアラン・チューリングの方が早かったのに。
(2022年8月31日投稿)
米国との開戦が、1941年(昭和16年)12月8日でしたから、開戦の前の年の作品、ということになるのでしょうか。街行く人の姿も、開戦前の姿ということになるのでしょう(街行く人の格好も(服装も)、開戦後では、変わったんでしょうね。)。(終戦は、1945年(昭和20年)8月15日でしたね。)
映画に映っている人達の中にも、赤紙を受け取られて、出征されて行かれた方も、おられたのでしょうか。
街の映像も開戦前の映像ですね。
この時代は、まだ、貨物輸送の主力は、鉄路であったのでしょうね。
大陸だともう戦争してましたからね、赤紙で言えばもうこの頃からでしょう。しかし戦争しているとは思えない暮らしぶりだなと思います。
貨物輸送だけでなく、旅客輸送も主力は鉄道でしょうね。バス・航空機が発展するのは戦後ですから。船舶や自転車はそれなりに活躍していたでしょうが、主力は鉄道だったはずです。
10数年前の某JRでの経験ですが、マルス券や券売機券が主流となった現代でも「審査」という部署がちゃんとあって、大量の乗車券を麻袋に入れて決まった列車で託送してました。ここにあるように駅での仕分けはせず、全ての券種ごちゃ混ぜで発送してましたから、流石に全部「審査」してたわけではないでしょうが。
今でも上信電鉄などでは硬券が主力。鉄道創業からのシステムがいまだに現役でいるのも、このシステムが完成度の高いことを物語っているのでしょう。
磁気券なら自動読み取り機があったのかもしれません。
袋ごとに着駅は分かっているので、発駅と運賃の整合性を調べたのかも。(サンプル調査だとは思います)
2024年現在でも、多くの社局に審査部門は存在します。最近は、ICカードのデータを見ることも多いと思われます。
3:11〜3:37このシーンとても音楽的なリズムで裁断されるんです。感動
この時からわずか5年後、日本が焼け野原になるなんて、誰一人思ってないんだろうな。
平和が一番だ。
正確には9年かな
硬券から磁気式の切符に切り替わった時は、券売機から出てくる切符にすごいなぁっと思いました。
そして職員による改札から、自動改札に変わった時も、あの大行列が無くなり、一瞬で不正を見抜く駅員さんの尊敬の姿も見れなくなった。
さらに東京で2001年頃にSUICAが導入されるとのことで、その駅に行った事も思い出です。
その時に作ったSUICAのカードを一回デポジットで返してしまったのが悔やまれます。その2年後位後に作った物は未だに使っています。
たぶんですけど、20年使ってたら中のチップがぶっ壊れて結局交換せざるを得なくなると思います。
@@NT-zf8dxウチのSuicaは20年近く使ってますが、まだまだ現役ですよ!
Suicaのペンギンが横向いてるイラストのやつですかね
13:15新聞読んでて検札する時に新聞閉じて上の網棚のから切符を取り出す風景は現在でも変わりなく見れそうですね!
令和のいま、この工程を全てやるとそうなるのかなと考えてみました。間違えなく無理かな。切符のために、こんなに大勢の人が雇用され、それぞれ細かな役割があり、生活が成り立っていたんでしょうね。脱帽です。
ICカードの場合、これらの工程全てを自動で行っていますね。人間を雇用するのは無理でしょう。適切な休憩所や仮眠所を設置するだけでも、今の基準だと大変でしょうから。
3:03 「先ず板紙にJGR 鐵道省の組み合はせ字模樣が刷り込まれます。」とあり、この時代はJapanese Government Railways =直訳「日本國政府鐵道」、通常日本語「鐵道省」だったことが分かる。戦後にはJNR = Japanese National Railways =「日本国有鉄道」、通称「国鉄」と成った。国鉄スワローズという野球の球団を有していた。国鉄民営化後はJR (Japan Railways) グループである。
自動改札機の技術も凄いけど、昔のマンパワーはもっと凄かったんだなって思った
労働人数が爆発的に増えた時代だからできた。もちろん労働基準や安全管理をおざなりにしての高度経済発展
@@高山典久-x5e 高度経済成長は1960年代。この時代は、戦争に人を取られる直前だが、人口急増でもない。
13:04
この時代でも1分単位で到着時刻を管理してたことに驚き
オークションに出てる国鉄時代の運転士の運行表を見る限り15秒単位で管理されてますね、
ちなみに、鉄道開業後30年は遅延が頻繁に起きてたようですが1900年から厳しくなったらしいです、国鉄最後の15年間の平均遅延時間は3分だったらしいです。
鉄道というシステムの特性上、アバウトに管理すると効率が落ちてしまいます。無駄な信号停止が多発したり、接続がうまく行かなかったり。自然と時間管理が厳しくなったのでしょう。
80歳の親が一歳のときの映像❔はじめて見ます‼️
東海道新幹線が開業しても、まだ座席指定管理は記録台帳と鉄道電話の併用かつ手書き作成だったのですよね
窓口は大混雑でパンクしても、列車はガラ空きのまま発車
しかも人間の手書きですから、誤発行も頻発
此れを解消するため、自動管理システムのマルスが開発され、様々な改良を重ねて現在に至ります
子供の頃は自動発券機なんてなかったから、窓口でこうだったなあ。
凄い😊貴重な資料ですね😊良き動画を拝見できました✨ありがとうございます
10:00〜
そうそうこれこれ。昔の窓口の風景といえばこれでしたねー。着駅ごとに切符が並べられていて「◯◯まで」と伝えて取り出して、10:09のダッチングマシンで日付するところもめちゃくちゃ懐かしい。
動画中の硬券のデザインのテロップ
枠の鋏痕の形が全部違うのがオシャレ
この映像に映っている方々が現在どのような暮らしをなさっているのかとても興味深い。
映っている人の中に子供が見当たらなかったのでほぼ全員死んでるでしょ。
昭和元年生まれで96歳ですので、当時二十歳前後の人が辛うじて生きているかどうかですかね。
12:40 この場面に子供はいますので、この方ならもしかしてご存命かもしれませんね。
平均寿命的には厳しいですが。出演した事覚えてたら色々聞きたいですね。
昭和40年代中頃位迄は硬券が殆どだと思ったけど。其れと改札係の駅員さんが暇だと暇つぶしに改札鋏をクルクル回したりカチカチ音を立ててのを思い出しますね、
JRが自動改札導入に踏み切ったきっかけのひとつが、改札口の駅員さんの労働条件の悪さだったと聞きます。
@@稲荷恵比寿 都心部の駅は30分交替でした。集中力の限界でしょう。
11:21 え!?当時のフィルム時代の映像の上に、更に映像をスポットライト演出で合成させるって、
メチャクチャ凄い!
もう、当時から映像の合成技術ってあったのか!
現像した撮影フィルムに光を通して別のフィルムに当てて感光させて複製してたんだと思うので、その光を遮ったり重ねたりして編集してたんでしょうね。
@@NT-zf8dx へぇ~!フィルムの加工には、そんな特性を活かした編集技術があったんですね~!
そうなると、時間も人手もコストも、相当掛かっていたのでしょうね~!
今では、クロマキー透過合成などの編集どころか、個人のズブの素人が、1人パソコンで編集ソフトを使って、テンプレを選んでクリック1つ1秒も掛かりませんからね。
この当時から見ると、相当に劇的な進化を遂げましたね!
国鉄~私鉄~駅の窓口~子供一枚硬券キップ購入しました。懐かしいですね~
乗車券印刷工場で乗車券の原型を作ってる時の音好き。
歌いたくなる♬♪
再利用されるという不正を防止するためという理由が一番だったのでしょうが、この時代にもうリサイクルの意識があったことがすごいと思います。
それにしても、一枚ずつ刷っていたとは、想像もしませんでした。大きな紙に何枚か刷って、切るのかと思ってました。
❌大きな紙→印刷→裁断
⭕大きな紙→裁断→印刷
リサイクルというか、単に貧しくてもったいない、と皆が思ってしまう時代だったと思う。
いいか悪いかは別にして、今は豊かになって費用削減の要求はあれど紙などいくらでも、且つ安く買えるから節約しようという意識が働かないのだと思う。
とはいえ、不要なところに資材を使わない、使えるならまた使う、という意識はいつでも大事かと。
鉄道関係無いですが、リサイクル自体は江戸時代にはやってたそうですよ。
この映像だと、裁断してから券面印刷してるけど、昭和40年代になると、東京印刷所では券面印刷してから裁断するという、いわゆる集中印刷券が登場してますね
昭和15年ですか・・逆に今から80年後(どうなっているかわかりませんが・・)から今現在を振り返るとSUICAやE233系15両とかも古臭く見えてしまうんでしょうね・・その頃は鉄道に変わる何かが出てきてるか・・(80年くらいでそれはないかもしれませんが・・w)
AIがカメラでその人が乗った駅と降りた駅を認識し勝手にその費用が請求または引かれていると予想。
お金という概念がなくなってると思う。
まさか80年後になって自分たちが見たこともない機械で見られてるなんて思いもしないだろうね
これに映ってる人たちが今の自動改札機やICカードを見たらどんな顔をするだろうか?
現代の社会の風景は映像や写真に残るからいいやと思ってたけどこうやって見てみると映像だけじゃわからないことがいっぱいですね
実感がない
阪急沿線に住んでいましたが、1970年代前半の高校生の時には、紙の切符・定期券でした
大学生の時は、自動改札が普及し始め
会社員になり、東京に行くと手動改札だったのに驚きました
1970年後半でも、国鉄の駅には、何百種類もの切符がストックされ、結構ローカルな駅でも駅員さんはサッと切符を選んでくれ、大したものだなぁと感心しました
ここに写ってるみんながもうこの世に居ない…感慨深い
そうなの?
@@waza-waza 様 赤ん坊でも80過ぎですよ。大人の方はほぼこの世には居ませんよ。この時代の老人は幕末生まれ
@@sunami808 みんな=全員かと思っていたのですが、必ずしもそうではないらしい🙇♂️
うちのオヤジ97はこの頃15歳だ(笑)
@@gaikaomiru すげえ!オヤジ元気でいてくれよ!
高校の通学はSLでした。切符も分厚い。父親が製紙会社の現場で仕事してたので釜からの湯気、匂い、暖かさ。遊びに行った時の思い出します。平和がいいです。二度目の東京五輪、に会えた。
戦争が無いように頑張ってみようと思った。
人生100年時代です。1956年私が生まれた100年前は日米友好通商条約の年、100年後は
月旅行がはじめてるか。
時間は生きてます。
はぁ〜
アナログ時代と言うか…人力時代って、全員が職人なのですね
凄い…
今、全部人力アナログでやったら交通インフラは麻痺して止まると思う…
仰る通りなのだけど、雇用の流動化を考えると職人じゃない方がいいのかもね。
12:00〜の列車は、東京午前5時30分発大阪午後6時48分着の第27列車(普通列車)ですね。昭和15年1月の時刻表より。
コメント何もありましたが、親世代が江戸時代生まれで働く子世代が明治生まれって考えるとこの時代で電車が走ってる事が凄いですよね。
お気づきだろうか、タイトルの右下の切り欠きが場面ごとに変わっていることに。
本当だ!全然気づかなかったwww
細かい遊び心ですよね。おしゃれ。
7:36 すげぇな、手先が器用だ
昭和15年か
もうここに映ってる人の
大半はこの世にいないんだな
昭和15年は1940年。
写っている人は成人(18歳以上)していると考えたら、現在最低でも100歳です。
もしもこの映像を「懐かしい」といえる人がいたら、長寿と言えますね。
この時幼児とかだと今80歳代だね。この映像に映る成人でも、まもなく戦争で死んだ人もいるんだろうな・・
列車内で検札を受けているおばあちゃんは、たぶん江戸時代生まれ!
@@tomonaka6611 天皇制政府によって犬死にさせられました。
@@Su----5年後の総理大臣も慶応生まれ。
なるほど‥硬券はこのように造られていたんですね‥🤔
SuicaやPASMOの無い時代だから手作業や集計も大変だったのですね‥
だから回収は厳重だったのですね‥
今は使用済乗車券や特急件を欲しいと
いえばもらえますが昔はほぼくれませんでした‥
今思えば、硬券は随分もったいない話ね。
無効印無かったのかな?
今は無効印や中にはその駅オリジナルの使用済印がありますが、昔はどうだったのでしょうか…??国鉄だけでなく各私鉄も乗車券や急行券の回収が極めて厳重で東武東上線の特別急行列車
フライング東上号の特別急行券などは
回収が極めて厳重でオリジナルの特別急行券が殆ど現存しないらしいですね…
当時、鉄道省(のちに国鉄)の使用済みの乗車券が再生紙に…当時からリサイクル♻️されていた事実には驚きました‼️
貴重な動画をありがとうございます。
4:15麻雀上手そう
こういう動画は本当貴重ですなあ
幼い頃路線バス乗り場で硬券を買った記憶がある。
子供は小さくたくさん並んでいるものを欲しがるが、
例に漏れず私も親に全部集めたいと言って困らせた。
ほどなくして硬券はなくなり、今の整理券方式に。
全面に「ワンマン」の札が出ていたが、ワンマン=
怖い人のイメージだったので、どんな怖い運転手が
いるのか気になって親に尋ねたなぁ。
2年程前に盛岡駅前のバスターミナルで県北バスの切符を買ったら硬券が出てきて驚きました
券紙をただひたすら横の台に移すだけの作業
5分と耐えられる気がしない
看板や箱といったものに書かれてる文字は基本的に手書きだったはず。
どれも達筆でめっちゃカッコいい✨
現在では使われない複雑で難しい漢字も重厚感があって素晴らしい👍
パソコンとかは現状維持でいいけど、手で書く時はこの難しい漢字で学んだ方がいいと思う。
素晴らしいよく残してアップして頂きました。
切符の意味ってもう無くなるのは間違いない。さみしいけど。
切符を切ってもらうの嬉しかったな。
この動画内に出てきた人たち
今は夜空に輝くお星様になったのです⭐️
1970年代までは未だマルスシステムが未成熟の時代で近距離きっぷでも初乗り区間のきっぷのみ機械売りで近郊区間でもあらかじめ印刷された硬券で発売され、窓口できっぷ箱から取り出しダッチングマシンに通して日付を打ち込み窓口から渡されました。今では考えられないかもしれませんが、1970年代中盤まで京橋駅(大阪)から吹田まで硬券で売られてました。今ならICOCAでピッ!ですけどw
今なら車内で検札することはなくなりましたね。車掌は座席指定車でタブレットで確認ですから。
東海道線だと1984年のルミネ開店までの茅ヶ崎駅北口では厚紙切符を売っていました。
硬券とか日付記録のダッチングマシーンは、紀州鉄道など小さい所しか使ってないですね。
ダッチングマシーンはあまり使わないから壊れないらしいですが、製造中止で部品がないので壊れたらお終いという側面も・・・。
これ大阪鉄道局管内で制作したのか?と思った。
ちょうど逆塗りになった流電が映っている
まだまだ工業化が未発達だった時代だからしかたないけど、一つの作業に1人ついてたなんてね〜。
10:16このタイプの切符
子供料金の場合
印刷された斜線部分を販売員が
ハサミで先端部分を →∠ の様にカットしていましたね。
10:09は日付スタンパーでしたか?
小児鋏でざっくり切って、切った方は改札日報につけて審査に送付でした。
一枚の切符にどれくらいの人が関わっているんだろう。。
僕の子供時代もこういう切符でした。どこどこ行きでしたね。
それが、金額表示になり、今はカード式
7:02このリズムサンプリングして曲にしたい
懐かしいです。この頃は電子卓上計算機や電子レジスターがなかったので私もそろばんで勘定しておりました。
この僅か5年後に日本が敗戦で
鉄道も含めて壊滅するとは思わなかっただろうな
それは現代の俺たちにも言えるんやで…
太平洋戦争に突入する一年前ですね。大日本帝国は明治大正昭和初期で、ものすごい西欧化をしましたね。
切符の製造も大変でしたね。全てのパターンを用意しなきゃならなかったんだから。必要だからとはいえ、大変なご尽力でしたでしょう。
この時代には乗車記念印や無効印なんて物は存在しないのかなぁ。良い時代だけどコレクション向きな時代ではないのかな?でも翌年からは太平洋戦争ですし貴重な動画です。
観光記念スタンプならあったようで、韓国の鉄道の本で日本統治時代の朝鮮鉄道各駅の地元名物を図案化したスタンプが載っていてなかなか楽しかったです。
作る側としては新しい駅ができるたび「また?忙しいのに勘弁してよ~」ってなるだろうな。
運賃改定の度とも言えますが、「運賃改定印」が押されていることも多かったですね。
戦前の日本は先進国だな。硬券である理由がよくわかる。乗車券は貨幣と同じ価値
機械式電動計算機も導入されていたJGR統計局。ジェットエンジンで除雪をした時代。
ジェットエンジンで除雪を試みて失敗するのは、1950年代後半。
踏切の遮断機ってこの頃にもうあったのか…
遮断かん式はあったものの、ワイヤー式や柵で遮断するものも普通にあり、今その光景は中国や東南アジアなどで見られます。
また、自動化はされてなかったために現在の1種にあたる踏切には踏切警手がいて上げ下げはダイヤグラムなどを見ながらの手動、それ以外は踏切警手はいるが時間外は3種か4種になる2種やほとんどが遮断かんの無い3種か4種でした(自動化は戦後になってからの話です)。
国鉄だと夜行や貨物含めて24時間運行が当たり前の時代なので、踏切警手も交代制で駅に近くなければ小屋に仮眠できるスペースや別にボットン便所もあったほどです。
券売窓口のずらりと並んだ硬券取り出し口。ものすごく懐かしい。慣れた駅員はあれを見ないで引き抜き、お金と引き替えで即渡していた。自動販売機よりはるかにスピーディーだったこと。昭和生まれでないと知らないでしょうね。
いくら買うのが早くても並ぶのは勘弁してほしいですね。
あと、駅員のガラの悪さは思い出したくもないですね。
昔の郵便局員、駅員など窓口でエラソーでしたね。座席も客より一段高かった。民間だと銀行窓口も客を顎でシャクったりしていましたからね。
もしかしてだけど、自分が子供だったからかもしれないw
東北地方の駅では1990年頃まで10:06からみたいに手動で切符を売っていたと親父から聞きました。大学進学で首都圏に出てきた時は自動改札を見てすごい驚いたと聞きました。